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【書評】浅野いにおとマイケル・サンデル


休日だったのでTSUTAYAで、ゼロ年代を代表する若手表現者、浅野いにお(代表作は「ソラニン」)の作品をレンタルしました。

世界の終わりと夜明け前 (BIG SPIRITS COMICS SPECIAL)
世界の終わりと夜明け前 (BIG SPIRITS COMICS SPECIAL) 浅野 いにお

おすすめ平均5つ星のうち4.0
5つ星のうち4.0世界の終わりは夜明け前
5つ星のうち2.0ちょっと厳しめに・・・。
5つ星のうち5.0文学的
5つ星のうち5.0透明な空
5つ星のうち1.0雰囲気マンガ

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本作品でもそうですが、浅野いにお作品は、ミニマルな日常生活を描きながら、家族や友人への離人感を徹底的に描き出します。そのデタッチメント(非関与)の中で、どこにも居場所の無い自分をもう一人の自分が認識していて、その中でも何とか小さな日常的機会によって自己肯定感を得て行く、(もしくは得れないで欠損感で壊れて行く)というようなフレームが作品に通底します。
浅野のこうした世界観に対しての批判としてあるのは、「安全圏の中での不幸」へのナルシスティックな耽溺です。
「俺、いつからこどもの頃に持ってたキラキラしてたものを、どこかに置き忘れてきちゃったのかな・・・」的世界観に対して「知らねえし、どうでも良いよ!」と突っ込みたくなる、というものです。
別にフリーターのお前が抱えている欠落感なんて、お前にとっちゃ大ごとかもしんないが、傍から見たらお前は十分恵まれてるし、不幸がってる自分好きなんじゃねえの、ていうか働けよ、という社会人的な批判があることは、分かるような気はします。
しかし浅野いにおの世界で繰り返される「共同体から自由で、(同時に)切り離されてしまった自己」というモチーフは、僕にマイケル・サンデルを思い出させ、むしろ議論の地平を開いているように感じました。
マイケル・サンデルはNHK「ハーバード白熱教室」の放送によって日本でブレイクし、現在「これからの正義の話をしよう」がベストセラーになっている、共同体主義(コミュニタリアニズム)の政治哲学者です。

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学
これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学 マイケル・サンデル,Michael J. Sandel,鬼澤 忍

おすすめ平均5つ星のうち4.5
5つ星のうち1.0物事をあまり深く考えない人にとっては参考になる本
5つ星のうち1.0低偏差値の私には難し過ぎた
5つ星のうち5.0これからの正義
5つ星のうち1.0価値観に違和感を感じる
5つ星のうち5.0『正義』を主観的に考えよう

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僕が大学で共同体主義(コミュニタリアニズム)について学んだのは、10年前。(10年、信じられない。昨日のことのようだ、とおっさんになった自分は思います。)とはいえ、教えてくれた鈴木先生の、あまりの横文字の多さにチンプンカンプンでした。ちなみに彼は後に文部科学副大臣になったのですが、先日首相官邸でお会いした時「なあ駒ちゃん、サンデル、俺が教えたの、覚えてる?最近流行ってるよな?なあ?」とちょっと嬉しそうだったので、「覚えてないので、改めて買って読み直しました」とは口が裂けても言えませんでした。
というどうでもいい話は置いておいて、サンデルは「負荷なき自己」なんて嘘っぱちだよ。俺たちは一見価値中立的な判断をしているようでも、俺たちが育った文化や国、共同体の価値観に基づいて判断しているに過ぎないんだから、むしろそれにコミットしようよ、と(滅茶苦茶荒っぽく言うと)主張します。
かといって「日本の伝統文化を学校で学ばせないと、日本人の品格が・・・(以下略)」的なノスタルジック保守ではなく、守るべき共同体は自明なものではなけれども、それでも我々の奥深くにある「何ものか」に関わることを通じて、議論することを通じて浮かび上がらせ、それを守っていこうよ、という立ち場を取るわけです。そういう意味で共同体主義(コミュニタリアニズム)は再帰的(あえて~する)なものです。
ここで浅野いにおに立ちかえります。浅野いにおの主人公たちは「こんな空っぽな社会くだらないし、そしてそこで何もできない俺自身もくだらないよね」と自分の不幸を消費している(と見られる)けれども、しかしそういう感性を主人公たちが持てること自体、(からっぽかどうかは関係なく)日本という共同体のなせるわざです。
なぜか。もし日本が異なった民族同士の内戦で民族浄化が行われていたとしたら、放課後に自転車を二人乗りしながら夕焼けを見て「夢で見た世界の終りに似てる・・・」とのんびりと感傷にひたれないわけです。
また、もし日本が南米諸国家のような生活水準であれば、親の収入に寄生してフリーターをしながら「俺の夢って、どこで失われちゃったのかな」と酔っぱらいながら遠くを見つめて思いをはせることもできないわけです。
浅野いにおの「不幸」な登場人物たちも、そして我々も、この空っぽで退屈でくだらない社会の文脈の中で思考している、ということに日常的には無自覚で、そうした意味で「あなたはその社会に生かされてんですよ」という批判は免れ得ません。
むしろ、ありがちな離人感感じてないで、必死こいて他人と関われば、そのプロセスを通じてお前の居場所はできるんだよ、と叫びたい衝動に駆られます。
他者(共同体)との距離は我々にわずらわしさから自由をもたらすが、同時に不全感をももたらす。ならばわずらわしさを承知で、あえて関与することで、自己肯定へと至る。そうした回路のあり方を、僕はいち社会運動家としてもっと一般化できまいか、と夢想します。
鬱陶しいけれど、あえて家族に関わる。面倒くさいけど友人に暑くるしく関わる。恰好悪いけど、地域のイベントや集まりに顔を出してみる。時間がもったいないかもしれないけど、職場の人とプライベートでも関わる。コストのかかる関わりの連なりから、自分の居場所は生まれ、そして他者の居場所をも自ら生み出せるタフな自分に変貌していく。社会における自己肯定への道筋を、このように描けないか、と考えているのです。
それは浅野の世界にいる数多のコミュニケーション弱者の立場に鈍感だ、という批判もあるでしょう。しかし僕は日本社会における経済的、社会的弱者にも間近で関わっている市民団体を運営しているからこそ、「大衆の弱者化」には人一倍敏感でありたいと思っています。弱者はそれを定義することで弱者となる。そのマッチポンプはそろそろお終いにして、生産的な方向に社会の風向きを向けていきましょうや、と思います。
パターナリズム(上から目線のおせっかい)批判を恐れずに、あえて浅野いにお的世界にはこう言いましょう。「関われ。話はそれからだ」と。
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当記事はNPO法人フローレンス代表理事 駒崎弘樹の個人的な著述です。
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