息子の中学受験伴走を終えて

1ヶ月半に及び、中受の伴走が終わった。
通しの結果として、もともと行きたかった2つの学校のうち、1つはダメだったが、1つには行けることに。
でも、そのプロセスが辛かった。2月のチャレンジ校受験ではなかなか思うように結果が出ず、本人も悔しかったり悲しかったり、今までの人生で味わったことのない挫折を味わっていた。
僕はというと、この1ヶ月半、勉強を見たり、塾の送迎したり、一緒に寝たりを1日10時間くらいやってきていた。
保育園の時は保育園が、学校に通い始めたら学校で1日の大半を過ごすわけなのだけど、この1ヶ月はそれこそ学校を休んでずっとパパと一緒。
思えば、こんなに濃厚に子どもと関わったのは、育休を取って赤ちゃんの時の息子の世話をしていた時以来だった。
この濃密な経験が自分に、そして自分と息子の関係にもたらしたものを、備忘的に残しておきたい。きっと月日とともに今の想いも砂のように流れてしまうだろうから。(長文になります)
【中学受験への懐疑】
もともと、中学受験が嫌いだった。自分が中学受験をして第一志望に落ちて、コンプレックスを植え付けられたこと。大人になって子ども分野に携わるようになって、経済的格差を助長する中学受験は構造的におかしい、と思うようになったことが原因だ。
ただ、地元の公立校にたまたまブラック校則がいまだに残っていることや、仲の良いお友達が受験することから、子どもたちが望んで中学受験をすることになった。
本当はどうかと思っている仕組み、もしくはその仕組みを是正するべき立場にいるのに、その自分が、中受という社会制度にフルコミットしなくてはいけないことに、葛藤を抱えた。
子どもに勉強を「させる」のも本当に嫌だった。「○○したい」という内発性に焦点を当てるのが、幼児教育の基礎で、そこに重きを置いた保育園を経営しているのに、当の自分が「定期テストの準備した?」とか言わないといけないなんて。矛盾もいいところだ。「教育虐待」なんて言葉も頭をよぎる。果たして自分のやっていることは教育虐待になっていないだろうか。そうだとしたら、自分は子どもの仕事に携わる資格なんてないのでは、と。
【息子の変化】
最後の入試の前日。2人で安いビジネスホテルに前泊し、セミダブルのベッドで身を寄せ合って寝ようとしていた。その時に、息子が言った。
「パパ、今まで本当にありがとう。この1ヶ月、辛かったけど楽しかった。パパは最高の相棒だったよ。」
息子の顔を見た。暗くて顔はよく見えない。
「僕は恵まれているよ。高め合える塾の仲間たち。支えてくれたピアサポーターの人や先生たち。1人だったら絶対にここまで来れなかった。全力で何かに挑戦する、っていうことができて嬉しかった。本当にありがとう」
ブワッと目から、汗が噴出した。
恥ずかしながら、書いている今もちょっと泣いている。
知らぬ間に、息子は大きく成長していたのだ。
学力という側面だけでなく、周囲の人々を愛し、感謝できる子に育っていたのだった。
これ以上、何を望むことがあろうか。
僕は君を誇りに思うよ。
【父と子の関係性】
同時に、僕と息子の関係性は変わった。それまでは当たり前だが、普通に「父と子」だった。しかし彼が「相棒」と呼んでくれたように、例えていうなら親友のような間柄になれた。受験という共通の目標を持ちながら、日々、一緒に飯を食い、難しい算数の問題にうんうん言って、結果に喜び、結果に凹んで、と繰り返していくうちに。
それは得難いものだったのではないか、と思う。
同時に、それは、僕が僕の父と「こうありたかった」という関係性だったのではないかと思う。少年時代の自分がついぞ得られなかった関係を、父になって、息子の挑戦に深く関わって、初めて得られるとは。
【自分の価値観の変容】
僕は起業家として、結果を常に出さないといけない、という強迫観念に駆られる人生だった。そのお陰で多少は結果を出せてきた。
だから息子の受験においても「なんとか結果を出させてあげたい」と思っていた。
しかし1ヶ月半彼とともに時間を過ごすことで、もうそういうんじゃないだな、と思った。
うまく言葉にできないが「この年齢の子が、こんなに頑張り続けている。もうそれだけで、十分立派だよ」という感情が湧いてきたのだ。
結果がどうでも良いわけではない。もちろん結果を目指して頑張る。でも、結果がどうあれ、その子の頑張り、挑戦しようとする姿勢、そして何よりその子自身が生きてここに存在してくれている、ということ自体。それが尊いのだ、と。
【最後に】
中学受験で、大学附属のエリート校に受かったとか、そういう華々しい成果を息子は得られなかった。しかし、少なくとも僕の人生の最後に見る走馬灯の中には、この1ヶ月半の、息子との思い出の断片が出てくるだろう。
息子の走馬灯の素材になってくれてもいたら、なお嬉しい。
勘違いされたくないのは、「だから中学受験は良い」なんてことはないことだ。今の中学受験の仕組みは、経済的な格差を広げるし、教育費の高騰を招くから少子化も進めてしまう。
だから、ブラック校則をなくしたり、「内申」によって大人が子どもの内面をコントロールすることをやめたり、探究的な学びをできるようにしたり、公教育を改革改善していくのが本筋だと思う。
一方で、僕のように中学受験に後ろめたさを持っていて、でもやらざるを得ない親御さんたちに対しては、これを機会にして子どもも、そして僕たち親自身も成長できるかもしれないよ、ということは伝えられたら良いな、と思う。
最後に、子どもの受験のために、仕事をめちゃくちゃ抑え気味にしていたり、会食等のお誘い等も全てお断りしてしまっていたことを、深くお詫び致します。これからは起業モードで頑張って働いていきますし、会食等も参加いたしますのでご容赦ください。
そして全ての受験生の親のみなさんに伝えたい。
結果はどうあれ、これからきっと心躍る人生が子どもたちを待っています。笑って送り出しましょう。そして、親である我々にもまた新しい明日が来ます。
本当に、お疲れ様でした。