私が「日本人」でなくなる日 ―参政党に捧げるニーメラーの詩
ナチス・ドイツに抵抗した牧師、マルティン・ニーメラーは、有名な詩を残している。
『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』
ナチスが共産主義者を連れさったとき、私は何もしなかった。私は共産主義者ではなかったから。
次に彼らが社会主義者を連れて行ったとき、私は何もしなかった。私は社会主義者ではなかったから。
次に彼らが労働組合員を連れて行ったとき、私は何もしなかった。私は労働組合員ではなかったから。
次に彼らがユダヤ人を連れて行ったとき、私は何もしなかった。私はユダヤ人ではなかったから。
そして彼らが私を連れて行ったとき、私を助ける人は誰も残っていなかった。
この詩は、ある集団への迫害を見て見ぬふりするうちに、社会から声を上げる者がいなくなり、
最後には自分自身が標的になるという、静かな恐怖を描き出している。
この構造が、現代日本で他人事ではないとしたら、どうだろうか。
そう、2025年時点において、私たちはニーメラーが生きた時代を生きようとしているように感じてならない。
「日本人ファースト」を掲げる参政党の主張を、この詩に重ねてみよう。
『彼らが最初外国人を攻撃したとき』
最初に参政党が「日本人ファースト」を叫んだとき、私は何もしなかった。私は「日本人」だったから。
次に彼らが「LGBTなんかいらない」と言ったとき、私は何もしなかった。私はLGBTではなかったから。
次に彼らが「終末期医療は全額自費にすべき」と言い出したとき、私は何もしなかった。私は死にかけてなかったから。
次に彼らは「発達障害は医療利権だ」と断じたとき、私は何もしなかった。私は発達障害でなかったから。そして彼らが私を攻撃したとき、私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった
駒崎弘樹
そう、ある特定の層に向けられた言葉に「自分は関係ない」と安堵し、沈黙を選ぶことは、
未来の自分の首を絞めることと同義なのだ。
参政党は次々に「敵」を作り、それらの人々は「日本人」に入らない。彼らにとって正しくないから。
そしてそのうち、あなたやあなたの大切な人たちも「日本人」では無くなるだろう。
しかしその時はもう、遅いのだ。
2025年の夏。今こそ、この70年前の詩を改めて自分事として捉え直す必要があるのではないだろうか。
出典:
https://kurodoraneko15.theletter.jp/posts/4eeb9000-217e-11ee-8078-2be177801829
https://note.com/hako_com/n/n401e57c0059e
https://www.t.u-tokyo.ac.jp/hubfs/press-release/2024/0205/001/text.pdf
新着記事トップ5
提言・解説・アイディアの最新記事
-
日記:2025年10月20日 B2G・フェミ・陰謀論
-
「高市は女性だから喜ばないフェミはおかしい」的なことを言う人に知ってほしいこと
-
日焼け止めは無色だけ? 学校指定コート2万3000円?これって本当にあり?